いま言葉にできること

Miumiブログ。世界を、時代を、現代を見つめて、言葉は真実をあきらめてならない。

国民番号制度、医療を進攻中

 2017年1月3日付けYOMIURI ONLINEは次のように報じた。

 

「病院でもマイナンバーカード、保険証代わりに
 政府は、2018年度にマイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにする方針を固めた。
 患者の本人確認を迅速にし、医療事務の負担を軽減するとともに、カードの普及を図る。厚生労働省が17年度当初予算案に、システム構築の関連費用などとして243億円を計上した。
 マイナンバーカードへの対応が整った医療機関では、専用機にカードを通せば、保険証がなくても診察や薬の処方を受けられるようになる。医療機関から診療報酬の請求を受ける「審査支払機関」が、健康保険組合などの委託を受け、システム上で保険の資格確認ができるようにしておき、医療機関からの照会に答える仕組みだ。
 医療機関は、転職や離職などに伴って失効した保険証が示されてもすぐに分からず、後で失効が判明するケースも少なくない。患者が加入している保険の種類が瞬時に確認できれば、こうした事態を防ぐことができる。」

 

 このニュースは大きく取り上げられることもなく、翌朝には消えたが、世の中はマイナンバーの来るべき暴走を、さして違和感なく受け止めたということだろうか。

 

 マイナンバーというか個人番号、正確には『行政手続における特定の個人を識別するための番号』は公布当初、「個人情報の保護を十分に配慮しつつ」社会保障制度、税制及び災害対策の3分野において利用の促進を図る、と利用の範囲が限定され、他の分野に関しては「個人情報の保護に十分に配慮しつつ」「国民の利便性の向上に資する分野における利用の可能性を考慮して」施策の推進を行うと記載されるにとどまっている。(「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律』平成25年公布)


 2015年6月には、日本年金機構の年金加入者の名前や基礎年金番号などの個人情報が125万件パソコンから流出する「年金情報流出事件」が起こり、行政が個人情報を扱うことへの国民の不安と危機感が高まった。


 また個人番号は、個人情報保護の観点からだけでなく、国民に番号を振り国家が国民を番号管理することへの不信や反対もあり、あるいは多様な個人の情報が番号によって一括管理され、一つの個人番号の下でいつでも個人のあらゆる行政情報が露わになることへの不安と不信もある。

 

 そのマイナンバーが、どんどん医療へと触手を伸ばしている。2016年からは高齢者医療保険等で届出(なぜか「利用」と呼ばれる)を要求されるようになったようだが、次はマイナンバーカードを保険証の代わりに使えるようにするという。


 マイナンバーカードがあれば「保険証がなくても診察や薬の処方を受けられるようになる」、といかにも国民の利便を説いているが、マイナンバーカードを医療機関で使うことによって、いずれは患者の全ての医療情報診療情報が個人番号に統合されるようになっていくであろう。
 しかし、個人の医療診療情報をどう保護していくのかということは、何も言明されていない。
 個人の医療情報は果たして守られるだろうか?


 近頃のメタボ差別もさることながら、遺伝疾患・精神疾患・原爆病・公害病原発放射能の被害・ハンセン氏病、そして障害や難病・・、この国の医療差別は幅広く、ほとんど未解決であり、その上長く根強い歴史がある。

 個人番号から漏れ出る医療診療情報は、やがて露わな偏見や就労差別・結婚差別等と結びついて、人々を苦しめることになっていくのではないだろうか。危惧する。

今年あなたは中間層から貧困層へ移動しませんでしたか?

 私はずっと「まあ中間層くらいのもんだろう」と、自分の所得のことを捉えていたのです。しかし今年になって、ふと「もしや自分は徐々に貧困層へ移動しつつあるのでは・・」と危機感を感じ、いよいよ年末には、はっきりと「もはやこの経済状況は、貧困層である」と自覚するに至っています。

 

 一番最初に貧困を意識したのは、夫婦喧嘩で「いくら貧乏してるからって!!」と言う言葉が自分の口から飛び出した時でした。

 それは、「いくら貧乏してるからって、いくら何年も買いかえられない布団だからって、いくらなんでも掛け布団の上に敷布団を敷くなんて」という、他愛ない相方への文句の言葉でした。が、その瞬間、仕事に追われて何年も自宅の手入れにお金や手間をかけられない、この状況はある意味、貧困状況なのでは?と感じたのでした。

 年末に至り、仕事で疲れ果てた私は、新年の準備どころか日常の家事を行うのも困難な状況。なんとか仕事は続き12月の給与は手に入ったものの明らかな減収。賞与はなく、目下の心配は、働き盛りだと世間に思われている自分年代が、実は収入が見込めるのは定年までのあと5年間だけ、一生分の収入が判明していて、しかもこの収入いつ年齢を理由にさらに減収されるかわからない状況です。

 今すぐ食べるのに困っているわけじゃないんだけど、なけなしの貯蓄をしたところで将来食べていけなくなることは確実であること。

 もう何年も、食料品にちょっとした日々の贅沢品など全く投入できずいつも一番安いものばかり、衣服や装飾品は購入せず節約ばかり、カットに行かないために髪を伸ばす・・。美容院代はもったいないから、行くなら千円カット。

 確かにまだすごい貧困状態ではないかもしれない、でもこれは確かにもはや中間層ではなく貧困予備軍、いやすでに貧困層への仲間入りをしているといえるでしょう。

 

 かつて、「一億総中流」というのが批判も交えて取りざたされた時代がありましたが、中間層という自覚の所得層の存在が社会の安定をもたらしてきたことは間違いない事実です。

 中間層からこの一年で見事に突き落とされた感のある「前は中間層だと勝手に思っていた」所得層の私などは、まさに『社会の不安定と格差の拡大』を体現しているようです。

 

 ちなみに2016年12月15日のプーチン露大統領の訪日で、北方領土問題を棚上げされた上で、日本が申し出たロシアへの経済協力は、3千億円規模に上ると言われています。

 また、12月28日付の東京新聞によるところでは、東京電力ホールディングスが福島第一原発事故の賠償や除染のために、『原子力損害賠償・廃炉等支援機構』に追加申請した金額は7千78億円で、これが申請通り認められれば、10回目の申請で支援額は8兆1千774億円を計上するとのこと。

 

 政界経済界で官僚閣僚省庁が権益利権を奪い合って好き勝手に利用している多額の、超多額の財政支出金は、いったいどこから搾り取られているのでしょう? 

 年末に頭を抱える一市民です。

 

「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るもの」(神尾春央 年貢増徴実務役 1744年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プーチン大統領訪日で「POST真実」を体験する

『英オックスフォード大出版局は16日、今年注目を集めた英単語として「客観的な事実や真実が重視されない時代」を意味する形容詞「ポスト真実」(POST-TRUTH)を選んだと明らかにした。』
 これは産経ニュース(Web)2016年11月17日の記事だ。

 

 事実や真実といったものが重要性や意味を失いつつあるという。

 

 このPOST TRUTHという耳慣れない言葉。だが、現代を象徴しているという印象が確かにある。

 最近ネットのニュースを読んで、これ事実かフィクションか、判断に困ることってないだろうか?

 

 例えば、12月16日付でAFPが配信したニュース。

『米ホワイトハウスは15日、大統領選の妨害を狙ったサイバー攻撃にロシアのウラジミール・プーチン大統領が直接関与していたとの見方を示した。二大核保有国である両国の対立した危険性を劇的に高める主張だ』

 

 これは一体どう受け止めればいいのだろう? いや、受けとめる前に、これは事実? 事実だとしたら、世界がひっくり返るくらい、えらいことじゃないのか?

 

 ところが世間は特にこんなこと気にしてない様子なのである。
 プーチンは安倍と一緒に、誠に礼儀正しそうな立ち振る舞いで、先ほどまで総理公邸での記者会見に応じていた。

 

 だが一方で、シリアのアレッポでは多くの市民を犠牲にして、政府軍の反政府軍への武力攻撃が行われている。
市民の上に降り注ぐ政府軍の爆弾や銃弾の多くはロシアの支援をうけている。
 一見紳士のような顔をして日本のメディアの前で淡々としゃべるこのロシア大統領は、実はシリアに雨あられと爆弾を落として大勢の市民や子供達を犠牲にしても躊躇しない、強大な軍事力で世界に介入する人物なのである。

 

 わからない。何が真実で何が嘘なのか。
 思わず自分の目と耳を疑うメデイアの情報…

 

…などなどとこの拙文を書きかけ中断した翌々日、メデイアは北方領土問題における安倍外交の明らかな失敗と、プーチン大統領と安倍首相の滑稽なまでの温度差、そして他方におけるロシアのシリア軍事介入の深刻さ、在日シリア人によって人々の「プーチン帰れ!」デモが起こったことなどを伝えている。

 

 これでようやく、少し事実関係の多面性が見え始め、整合性がとれ始める。

 何だったんだろう、あのロシア大統領訪日への勝手に期待した報道。何だったのだろう、あの共同記者会見…。

 

「 POST真実」という危険性は、事実の複雑さ多面性を見極めることが困難な個というものの中に、そして事実と情報を私利私欲の曇りなく、ありのままに複雑に多面的に伝える事を忖度するメデイアの中に、存在しているようである。

 

 

1兆1900億円のTPP予算を執行停止しないんだそうだ

 2016年12月10日付東京新聞によると、

安倍晋三首相は9日、TPPの発行を見越して組んだ約1兆1900億円の関連予算について、来年1月にトランプ氏が米大統領に就任し、実際にTPP脱退を宣言した後も、予算の執行を止めない方針を示した」という。

 

 はあー。だからアメリカの脱退で、発効しないことがほぼ確定しているTPP関連法案を強行採決したのだな。

 

 それにしても、2015年度補正予算で4875億円、2016年度当初予算で1582億円、補正予算で5449億円の関連予算が計上されているという。発効される見込みのない法案のために日本人が支払わされるのは、すごい金額の税金である。

 

 この予算、一体誰に何の目的で支払われるのだろうか? TPPが発効しなくても、そのカネは一定の成果をあげるのだろうか? それは何の誰のための成果か?

  私は知らない。新聞を読んでも具対的な記載はない。国民はみんな知っているのだろうか。私にはわからない。わかるのは、巨額の税金がすでにTPP予算として執行されているという現実だけである。

 

 

『弾劾可決』に思う

『「新興宗教で近づいた人物に国政を牛耳られていた」との構図が明らかになり、朴氏の友人、チェ順実被告による財閥資金の流用や、その娘の大学不正入学などが発覚するにつれ、国民の怒りは増幅。当初2万人だった退陣を求めるデモ参加者は、6週間で220万人に膨れ上がった。』(2016年12月10日東京新聞

 

 結果、10月下旬疑惑発覚直後、ハードルが高いとみられていた弾劾は、与党現有議席128のほぼ半数となる少なくとも62人が賛成し、圧倒的多数で可決された。

 

 言わずと知れた韓国朴大統領弾劾のことである。

 時系列で見ればこうなる。

 因果関係で見てもこうなる。

 

 嘆息する。

 韓国では、人は当たり前に不正に怒り、人々の不正への怒りに、政治家は震撼する。反応せざるをえない。

 

 日本では、事象はこの順序で因果関係を結ばない。

 因果関係が成立する以前には、あまりにたくさんの、あまりにたくさんのハードルが存在するからだ。

 

 まずこの国では、めったなことで政権与党周辺のあるいは権力の中枢にある国会・地方議員周辺の権力とカネにまつわる疑惑は発覚しない。 

 メディアはそれに関心を持たない。あるいは関心を持っているふりはしたところで、核心にまつわる関係性や確証は国民の眼前に暴きたてられることはない。これまでにも暴きたてられる寸前はあった。しかし話は可能性の段階で止まる。止まるのか止められたのかはわからない。

 国民は何も知らないままである。

 

 友人と食事の場であれこれ話す。

 友人たちは皆疑っている。

「なぜ国民や都民に利益のないところで多額の税金が使われるのか」

「あのMとかいう政治家は一体どこからいくら金を受け取っているのかね?おかしくない?都税を使って建物を建てろ建てろって」

 あるいは、

「Bボール協会長は、Aアリーナを都税で建てさせて、音楽協会からどれだけの金を受け取るんだろう…」

 証拠はないから、ただ憶測で喋るしかないのである。知る権利とは名ばかりで、市民には政治家の利権や汚職について知る自由はない。

 

 でもたとえ、政治家の汚職や利権、あるいはカネと政治の結びつき、あるいは政界と財界そして官と政財の癒着とも言える結びつきについて、何かが発覚したとして、人々は怒るだろうか? 

 いや怒ったとして、人々は行動するだろうか?

 

 行動すると思う。たくさんの人が怒って、行動したいと思うと思う。

 でもこの国では、たくさんの怒れる人々は、行動したいと思いながら、何をしていいかわからないまま、いつしか不正と不正への怒りに慣れてしまう。

 どんな苦痛も、苦痛を感じ続けるより苦痛を感じないように、それが「苦痛でない」と、あるいは「思ったより大した苦痛ではない」と自分をだますことの方が、今日を生きることが楽であることを日本人は知っている。

 

 そして本当に実際のところ、日本人は何をしていいか、何をしたら、怪しく汚い政治とカネの世界が変えられるのか、皆目わからないのだ。

 日本人は自分の考えで社会を変えたことなどないのだから。

 こうした手の内のなさは、厚顔無恥な面の皮の厚い政治家たちには、完全に読まれきっている。選挙で負ける以外には、市民からの不正への応報などありえないことを知っているのだ。

 

 韓国の弾劾に、思う。

 こんなに近くの国なのに、韓国の人たちと日本人はあまりに違う。

 韓国民が6週間で手にした大統領の弾劾という成果は、日本人にとってはあまりにたくさんの高いハードルの、はるかに彼方先である。

 

南スーダンが「比較的落ち着いている」なんて信じているのは日本人だけだろう

19日付けの東京新聞によると、11月17日アメリカパワー国連大使安保理事会で「南スーダンに対する武器禁輸等を求める制裁決議案」を提出する考えを示した。

「政府と反体制派の戦闘による一般市民の犠牲をなくす第一歩になる」と説明する。

 

今月上旬に現地を訪れたディエン事務総長特別顧問も「7月の大規模な戦闘で政治対立が民族紛争になり、憎悪が広がっている」武器禁輸などの国際社会の行動が「民族大虐殺を防ぐ助けになる」と強調している。

 

日本政府は、自衛隊PKO活動に「駆けつけ警護」や「宿営地の共同防護」などの拡大任務が付与されることについて、「PKO5原則を満たした上だ」と繰り返し発言してきた。すなわち「①紛争当事者間の停戦合意が成立していること…」等の条件を、現在南スーダンが満たしていると強調する。

 

しかし世界は、南スーダンで停戦合意が成立しているとはみなしていない。

南スーダンは、今年7月の戦闘で停戦合意が崩壊し、再び内戦状態にある。

 

さらに、今や国連においてPKOの任務は、停戦合意が破られようと、撤退せず中立的立場を捨てて住民を保護することを優先する。住民保護のためなら、たとえ相手が政府軍であっても交戦主体となって戦うことを求められている。

 

日本人の頭の中では、まだお花畑が繰り広げられているようだ。

自衛隊は、中立的な立場を守る

停戦合意が守られている地帯のみで活動する

停戦合意が破られば撤退する

と。

世界のスタンダードにおいては、住民を保護もせずに撤退する中途半端な部隊は、おそらく非難をまねくだけだろう。

 

それでも南スーダン自衛隊を派遣する

日本政府の意図はどこにあるのか?

日本政府は国連PKO活動のためではなく、日本政府のために自衛隊を派兵しようとしているというのが、およその見方である。

 

中途半端な派兵が招く犠牲に対処するには、自衛隊の軍隊化、そして十分な軍備が必要、そしてなによりも十分な法整備が必要、というわけだ。

その延長線上に、「時代のニーズに合わなくなった」憲法第9条の改正があることは言うまでもない。

 

それにしても、だ。

自衛隊には何事もなく帰ってきて欲しい」「南スーダンは比較的落ち着いているらしい」「戦闘が起これば勇気を持って撤退するのだ」という希望的観測を信じ自衛隊員の無事を祈る日本人と、

その正しさを声高だかに強調しながら、実は虎視眈々と派兵の実績を作り、既成事実化を進め、既成事実に基づく軍備と法の整備を狙う安倍政権の狡猾さとの対照はどうだろう。

 

この大きな落差に、戸惑いとショックを感じるのは、自分だけだろうか。

 

世界地図を見ながら嘆息する。

日本はまだ一応「平和」なのだと。

そして日本人は、間違いなく平和ボケしているのだと。

日本人は何も知らない。遠い南スーダンで何が起こっているのかも。もしかしたら南スーダンがどこにあるのかさえも。

 

ボケてて許される間は、日本人はお花畑を信じているふりをするのだろう。

そしてある日、自主的に協調的に言うのだろう。

「仕方ない。時代が変わったのだから」

 

その日、日本に憲法第9条がないことは言うまでもない。

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