安全保障にとって必要なのは 核抑止力か、核軍縮か?
河野太郎外相は2018年2月8日の衆議院予算委員会で、米核戦略指針「核体制の見直し(NPR)」を巡り、米国のNPRを高く評価すると自ら表明したことを「当然だ」と語った。
氏は、核軍縮は重要だとしながらも、
「それ以上に国民の生命、平和な暮らしを守ることも重要だ。NPRは同盟国に核抑止力の提供を明確にしている」と主張し、その評価の根拠について「オバマ政権当時とは、北朝鮮の核の脅威が全く違う」と説明したと言う。
同日、自民党政調会長の岸田文雄氏は記者会見で、河野氏が「高く評価する」と歓迎したNPRについて、
「核兵器のない世界を目指すと言う理想を追求する上で、NPRはどんな影響があるのか。唯一の被爆国として注視しなければならない」と指摘し、
「我が国の安全保障を考えた場合、核軍縮・不拡散は重要な課題だ。国会での活発な議論が大事だ」との考えを示した。
これを見ていると、安全保障には、依然として全く正反対の二つの方向性があることがわかる。
すなわち、日本として一国の安全を守るためには、米国の核兵器で北朝鮮を脅し抑え込むか、地球上から核兵器をなくすことに尽力すべきか、である。
そもそも核保有国が言っていることは、河野外相が言っていることと同様に、よくわからない。
河野外相は、核軍縮は必要だが米国の核の傘が必要だ、と言う。
トランプ米大統領は、アメリカは核を持って当たり前だが、北朝鮮は核を持ってはならない、と。しかも自国は使える小規模核兵器を開発してよいのだと言う。
わかるようで、わからない。
日本に住む私にとっては、北朝鮮の核兵器も、米国の核兵器も、ロシアの核兵器も、イギリスの核兵器も、フランスの核兵器も、中国の核兵器も、イスラエルの核兵器も、インドの核兵器も、パキスタンの核兵器も、あるいはイランの核兵器も、等しく同様に、脅威である。
言わせてもらえば、北朝鮮が核開発をしてはならないのと同様に、私から言わせれば、アメリカも核開発をしてはならない。どのような規模の核兵器も断じて新たに開発してはならないのである。
米国のNPRは、小型の戦術核を新たに開発することを見直すと言う。また非核攻撃に対しての核攻撃も排除しないと言う。
言語道断である。
使わない(脅すための抑止力)という理由であっても、核兵器の開発は人類にとって何一つ益はない。
しかし、「使える核」という理由にあっては、もはや狂気のような人類への威嚇と恫喝である。
そのようなものを開発して、いったい益をうるのは誰なのか?
核兵器は、戦略核であろうと戦術核であろうと、使わない目的(抑止)であろうと、ましてや使う目的だという狂気のような発言をしようと、あまねく人類と地球に対しての犯罪である。
にも関わらず、世界中の核兵器を身勝手に政治や経済で色分けして、どっちは安全だとか、どっちは脅威だとか、言う。そんな議論は冷戦時代の過去にし尽くされ、馬鹿にされ、永遠に廃棄されたはずである。
なぜなら、核兵器が破壊するのは、敵基地などではないからだ。
核兵器が破壊するのは、熱線と爆風と放射能で焼き尽くし汚染し尽くしその後の長きにわたって破壊し尽くされるのは、人であり町であり生活であり人類であり地球である。そのことを、人類は過去に経験し、反省し、学んだはずである。
核兵器は、政治も経済も選べない。どのように規模をコントロールしようとしたところで、報復を繰り返せば、結果的には何度でも地球を破壊し尽くし、政治も経済も人も選ぶことは決してない。
いったい核抑止の論理を蒸し返して利を得ているのは、誰なのだ? 人類を人質にとって、いったい何を得ているのか。
人類は、政治や経済の狭き観点を超えて、このような、人間と生命と地球への恫喝を、監視し暴き出さなければならないと思う。
核兵器をつくりだしたのは、人類である。これは存在してはならないものだ。なくすのは、人類の責任である。