いま言葉にできること

Miumiブログ。世界を、時代を、現代を見つめて、言葉は真実をあきらめてならない。

くたびれた夜のボヤキ

なんかもうダメだ。
なんもできない。
疲れている。
すません。寝ます。

あ…ダメだ。寝れない。
寝れなくて疲れてくる。
も、なんもしたくない。

なんて言うの、言葉がひらかない。
前頭葉もひらかない。
つまり、ろくな事もましな事も、なんも浮かばない。
しんでる、眠気以外のすべてが。

もういいや
ばいち

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Y.Hさんに向けた言葉

何かを失った人こそ美しい。何かを失った人こそいとおしい。
あなたはかつて、『完全無欠』だったのではないだろうか。
今やあなたはかつての精神をそのまま宿して、体の半分をうしなっている。

抵抗する人は美しいだろうか?
従順な人こそ、美しいのではないだろうか?
あなたは本当は失った手足に従順な、美しい人なのではないだろうか?
あなたの目はとても純粋に見えました。

それでもあなたの、抵抗する精神を宿す肉体は醜く歪む、だからどうなのだ?とわたしは居直る。
従順にして適応的な人は「美しい」。
だったらどうだというのだ。
醜く歪むことを恐れてはいけない。

存在は、傷ついて消滅していきつつある。
傷つきながらも存在している事は、それ自体が美しい。
それ自体がいとおしい。

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ニブンノイチと変な夢

なにかを決めなきゃいけない。利害は対立する。結局多数決で決める。多数決ってなんだろう。ニブンノイチを超える事だ。なぜニブンノイチ未満は無視されるんだろう。決めるって、ニブンノイチ未満を無視することだ。

宜野湾市長選の開票結果が出た。多数決は勝負だ。ニブンノイチ未満にならないように、過半数を超えなければ勝利はない。

世の中ってこういうことだ。
多数決で負ければ、待っているのは失敗だけなのだ。
ああ、Aは何もできない人間であってほしい。ああ、私たちは過半数取れなくても、ニブンノイチ未満であっても何も侵されない存在でありたい。

会社をクビになる夢を見た。いや正確には、支払われた給料がいきなり半分以下になり、きちんとした説明もなかったので、頭に来てやめたのだった。
会社争奪の多数決でニブンノイチ以上をとったのか、現れた新しい社長はなぜか威丈高で、私が存在することをおこっていた。
長い道のりを、Oと歩いた。慰めはなかった。

今日は給料日。夢と同じことが起こらないことを祈る。

おもうこと

人は孤独なとき何をするのだろう。人は孤独の時、本を読むのだろう。その本は孤独な詩人が書いたものがいい。
世界で自分がたった一人だとしても、たった一人の人は自分だけではないとわかるから。

世界は、知性なく上品でない「良い人」で溢れ始めている。人びとは物忘れがひどく、よく忘れるひとほど自分に都合のいいことを大声で正当化する。
現代では、「正しい人」とは、大声で上から物を、いかにもそれがたったひとつの真実であるかのようにしゃべる人なのだ。

人と一緒にいることに慢心してはならないと思う。
たとえ足元がたった1人であっても、何が正しいのか正しくないのか、深くものを考えなければならない。深く記憶しなければならない。
それが個である自分の責任なのだと思う。

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順応と無関心と忘却

何冊もこの人の本を読んでるのに、全く何ひとつ身についてない感じがする。人は個として思索するものであり、身につくようなものじゃないんだろうな、と暗澹とする。
それにしても辺見庸は凄い。もう何十年も《ファシズム》と戦っている。

いつも日常に追われるばかりの私は、気がつけば、自分の中の、あるいは自分の周りの《ファシズム》に意識がなくなっている。

上下意識、
支配ー被支配、
ハラスメント、
いじめといじめに対する無関心、
嘘と抑圧への無関心、
ルールは要らないーすなわち私がルールだ、
そして不快な事は全て忘れ去ってしまうこと、

これらは全て、私と私の周りに現に存在する、そしてこれからますます日本と世界を覆い尽くす《ファシズム》の芽だ。

辺見庸は、人々の順応主義が、あからさまに好戦的な国家権力と、それを後押しする資本、メディアの推し進める《ファシズム》を支えていると言う。

人は、不快を恐れるあまりに、その不快さにすらにすら慣れ、不快さに順応してしまう生き物なのだ。
そしていつかその不快さの理由を忘れる。
言葉で書かれた歴史は消えていく。出版物は少なくなり、教科書は真実ではなく国家権力の推奨した言葉を、その紙面に掲載する。歴史と記憶が消えて行き、人々はやがて不快さの根拠を喪う。

ファシズム》による支配は正義となり、自由を求める抵抗は犯罪となる。
私たちはまさに今そういった時代への過度期を生きている。

順応と無関心と忘却。本当に今闘わなければならない相手は、私の中のこうした心象である。

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3歳の女児の孤独と地獄。

なんか臭いものっておいしいなぁ。つまりお餅に納豆とネギ。苦くって生臭くっておいしい。

子供は泣いただろう、熱湯を顔にかけられたとき。火がついたような声で叫び泣いただろう。それとも3歳にして熱湯をかけられる死の痛みにすら忍耐できるほどの恐怖を植え付けられていただろうか、3歳で。

正座させられて、顔に痣を作られて、火傷をして殺された子供は、子供の大好きな納豆がおいしいって知ってだろうか。子供は納豆でうがいするって、知ってたかな。知るわけないよな。鬼と住んでたんだ。
3歳の子供の顔に熱湯かけて殺した親は、子供が納豆大好きだって、うがいしながら食べるって、知ってただろうか、きっと知らねえよなぁ。
だって鬼だからよ。
いや鬼じゃなくて、腐れ桃太郎だったのかもね。
くたばれ、子供殺しの桃太郎。
くたばれ、3歳の子供に熱湯をかけて殺す親。
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人は昔、もっと冷たくてもっと強かった

福岡高裁宮崎支部、強姦事件控訴審の逆転無罪判決。
警察のDNA鑑定について「捜査官の意向を受けて鑑定不能とした可能性を否定できない」と、捜査当局による証拠隠しの可能性に言及。

新聞を斜め読みしながら思った。
人は昔、もっと冷たくてもっと強かった。今ほど優しくなかった。昔、人は金がなくても貧乏でも、貧困ではなく、ものがなくても苦しむ事はなかった。

かつて人は「お上に逆らえない」と言いながら、権力を批判的に考えるのが常だったし、「警察に悪意があったら、何だってできるんだ」なんて言う当たり前のことを、今更ながらに驚く現代人とは違って、警察のことを頭から信じていたりはしなかったのだ。

かつて人は、何も信じていなかったし、人間を信じていた。
現在、われわれは全てを信じ込んでいて、何も疑わず、そして人間を信じてはいない。

かつて私たちは、他人が知っている事を知らなくても平気だった。自分だけが知っている事を持つことが、大事だった。
今私たちは、人が知っている事を知らなかったら不安に駆られ、メディアの前から逃れられなくなっている。

テレビの冤罪報道に対して女弁護士が言う。
「いまだにこんなDNA鑑定が行われているのか」
「いまだに」ーそれは、過去を高い目線から見ている言葉だ。
でもそうだろうか?
私たちは、過去に高い目線から見下ろされているのではないだろうか?

かつては、警察のDNA鑑定を当たり前に疑ってかかる、普通の人々がいた。
今は、警察のDNA鑑定が間違っていると、頭から疑う人はいない。
私たちはとらわれているーきっと現代に。
昔、人は馬鹿で当たり前だったのに、今は賢くなければいけない。優しくなければいけない。正しくなければいけない。誰にとって正しいんだろう?
国にとって?
メディアにとって?
お上にとって?

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