いま言葉にできること

Miumiブログ。世界を、時代を、現代を見つめて、言葉は真実をあきらめてならない。

ニブンノイチと変な夢

なにかを決めなきゃいけない。利害は対立する。結局多数決で決める。多数決ってなんだろう。ニブンノイチを超える事だ。なぜニブンノイチ未満は無視されるんだろう。決めるって、ニブンノイチ未満を無視することだ。

宜野湾市長選の開票結果が出た。多数決は勝負だ。ニブンノイチ未満にならないように、過半数を超えなければ勝利はない。

世の中ってこういうことだ。
多数決で負ければ、待っているのは失敗だけなのだ。
ああ、Aは何もできない人間であってほしい。ああ、私たちは過半数取れなくても、ニブンノイチ未満であっても何も侵されない存在でありたい。

会社をクビになる夢を見た。いや正確には、支払われた給料がいきなり半分以下になり、きちんとした説明もなかったので、頭に来てやめたのだった。
会社争奪の多数決でニブンノイチ以上をとったのか、現れた新しい社長はなぜか威丈高で、私が存在することをおこっていた。
長い道のりを、Oと歩いた。慰めはなかった。

今日は給料日。夢と同じことが起こらないことを祈る。

おもうこと

人は孤独なとき何をするのだろう。人は孤独の時、本を読むのだろう。その本は孤独な詩人が書いたものがいい。
世界で自分がたった一人だとしても、たった一人の人は自分だけではないとわかるから。

世界は、知性なく上品でない「良い人」で溢れ始めている。人びとは物忘れがひどく、よく忘れるひとほど自分に都合のいいことを大声で正当化する。
現代では、「正しい人」とは、大声で上から物を、いかにもそれがたったひとつの真実であるかのようにしゃべる人なのだ。

人と一緒にいることに慢心してはならないと思う。
たとえ足元がたった1人であっても、何が正しいのか正しくないのか、深くものを考えなければならない。深く記憶しなければならない。
それが個である自分の責任なのだと思う。

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順応と無関心と忘却

何冊もこの人の本を読んでるのに、全く何ひとつ身についてない感じがする。人は個として思索するものであり、身につくようなものじゃないんだろうな、と暗澹とする。
それにしても辺見庸は凄い。もう何十年も《ファシズム》と戦っている。

いつも日常に追われるばかりの私は、気がつけば、自分の中の、あるいは自分の周りの《ファシズム》に意識がなくなっている。

上下意識、
支配ー被支配、
ハラスメント、
いじめといじめに対する無関心、
嘘と抑圧への無関心、
ルールは要らないーすなわち私がルールだ、
そして不快な事は全て忘れ去ってしまうこと、

これらは全て、私と私の周りに現に存在する、そしてこれからますます日本と世界を覆い尽くす《ファシズム》の芽だ。

辺見庸は、人々の順応主義が、あからさまに好戦的な国家権力と、それを後押しする資本、メディアの推し進める《ファシズム》を支えていると言う。

人は、不快を恐れるあまりに、その不快さにすらにすら慣れ、不快さに順応してしまう生き物なのだ。
そしていつかその不快さの理由を忘れる。
言葉で書かれた歴史は消えていく。出版物は少なくなり、教科書は真実ではなく国家権力の推奨した言葉を、その紙面に掲載する。歴史と記憶が消えて行き、人々はやがて不快さの根拠を喪う。

ファシズム》による支配は正義となり、自由を求める抵抗は犯罪となる。
私たちはまさに今そういった時代への過度期を生きている。

順応と無関心と忘却。本当に今闘わなければならない相手は、私の中のこうした心象である。

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3歳の女児の孤独と地獄。

なんか臭いものっておいしいなぁ。つまりお餅に納豆とネギ。苦くって生臭くっておいしい。

子供は泣いただろう、熱湯を顔にかけられたとき。火がついたような声で叫び泣いただろう。それとも3歳にして熱湯をかけられる死の痛みにすら忍耐できるほどの恐怖を植え付けられていただろうか、3歳で。

正座させられて、顔に痣を作られて、火傷をして殺された子供は、子供の大好きな納豆がおいしいって知ってだろうか。子供は納豆でうがいするって、知ってたかな。知るわけないよな。鬼と住んでたんだ。
3歳の子供の顔に熱湯かけて殺した親は、子供が納豆大好きだって、うがいしながら食べるって、知ってただろうか、きっと知らねえよなぁ。
だって鬼だからよ。
いや鬼じゃなくて、腐れ桃太郎だったのかもね。
くたばれ、子供殺しの桃太郎。
くたばれ、3歳の子供に熱湯をかけて殺す親。
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人は昔、もっと冷たくてもっと強かった

福岡高裁宮崎支部、強姦事件控訴審の逆転無罪判決。
警察のDNA鑑定について「捜査官の意向を受けて鑑定不能とした可能性を否定できない」と、捜査当局による証拠隠しの可能性に言及。

新聞を斜め読みしながら思った。
人は昔、もっと冷たくてもっと強かった。今ほど優しくなかった。昔、人は金がなくても貧乏でも、貧困ではなく、ものがなくても苦しむ事はなかった。

かつて人は「お上に逆らえない」と言いながら、権力を批判的に考えるのが常だったし、「警察に悪意があったら、何だってできるんだ」なんて言う当たり前のことを、今更ながらに驚く現代人とは違って、警察のことを頭から信じていたりはしなかったのだ。

かつて人は、何も信じていなかったし、人間を信じていた。
現在、われわれは全てを信じ込んでいて、何も疑わず、そして人間を信じてはいない。

かつて私たちは、他人が知っている事を知らなくても平気だった。自分だけが知っている事を持つことが、大事だった。
今私たちは、人が知っている事を知らなかったら不安に駆られ、メディアの前から逃れられなくなっている。

テレビの冤罪報道に対して女弁護士が言う。
「いまだにこんなDNA鑑定が行われているのか」
「いまだに」ーそれは、過去を高い目線から見ている言葉だ。
でもそうだろうか?
私たちは、過去に高い目線から見下ろされているのではないだろうか?

かつては、警察のDNA鑑定を当たり前に疑ってかかる、普通の人々がいた。
今は、警察のDNA鑑定が間違っていると、頭から疑う人はいない。
私たちはとらわれているーきっと現代に。
昔、人は馬鹿で当たり前だったのに、今は賢くなければいけない。優しくなければいけない。正しくなければいけない。誰にとって正しいんだろう?
国にとって?
メディアにとって?
お上にとって?

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言葉、言葉、言葉!

と、ハムレットは言ったが、

時おり私も「言葉、言葉、言葉!」とつぶやいている。

 

その理由は、言葉が消えていくからだ。

もちろん頭から。

脳に明らかにトラブルがある。わかってる。そんなこと、もう10年ほど前から。

失語症状である。

はじめは末尾からひとつ前の言葉が消えた。

次第に、単語の想起困難が現れ、換語困難が現れ

最近は、名前が入れ替わる。

困ったものです。

間違ったわけではないんですが、一瞬油断するとよその子の名前呼んじゃうんだ。

ごめんなさい。

 

私個人の脳の中の失言語もやっかいだが、

世界も言語を失っている。

世界は言葉を失い、歴史をも故意に失うことを奨励している。

加虐の歴史を故意に消し去って、被害者になりすまし、

テロや攻撃に対して、自衛が必要だと戦争への道を作り上げる。

戦争への道も嫌だが、特定の言葉や歴史を故意に奪う統制、

国民から思考したり、記憶したり、記録したり、伝達したりすることを奪う統制

そちらは、虫唾が走るほど嫌だ。

漫画『はだしのゲン』でも、

原爆が落とされる描写や原爆投下後のヒロシマの描写も悲惨で目を覆うが、

子供心に恐怖に戦慄したのは、第一巻で描かれる原爆投下前の広島の、

戦時下の日常だった。

そこでは、大日本帝国の戦争に疑問をもつことは禁じられ、

隣近所と戦争を戦うための助け合いを強要され、

反戦思想をもつことは共同体から厳しく見張られ、

竹やりをもって近代戦に対処するという禍々しいフィクションを日夜修練させられる。

特高警察は、少しでもこうした統制に反する国民がいれば

令状なしで逮捕拘留し、暴力と拷問で思想の変更を強制できるのであった。

 

心のありようの自由、それはこれからどうなってしまうのだろう。

個人番号が心を自由を統制するため、国益に反する個人を検索し、公共安全のために半所する時代にならないだろうか?

そのことに、肌身で不安と不信を禁じ得ない。

 

ともかく、言葉、言葉、言葉!なのだ。

自分で感じ取り、知り、考え、記録し、記憶し、伝達する。

言葉を残し、言葉で残されたものをどこまでも隠し持つのだ。

人類の知性に反する時代の行きように、

心のありようの自由を対峙しなければならない。

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毎日心がざわざわする

毎日ざわざわする。

からだの悪寒ではなく、心がだ。

少し前まで、こんな窮屈感はなかった。鈍かっただけなのかもしれないが。

 

多くの国民の反対を無視して

9月安保法制が、国会で強行採決され

連合政権構想や来年参院選への希望もみえないまま、

安倍政権は、立憲主義どころか

アベノミクス新三本目の矢は、介護離職ゼロ」などと

理屈も根拠もない政治を 臆面なく繰り広げている。

原発は、避難の方法もないまま次々と再稼働を始め、

辺野古では、反対する市民への海保と機動隊の暴力が繰り返され、

知事の権限を国が代執行するという暴挙が、

裁判所人事をあらかじめ変更したうえで

準備されようとしている。

欧州への大量のシリア難民の流入は、行く先々の国で困難を極め、

10月にはアンカラデモ行進への爆弾テロ、

ロシアのシリアへの空爆が圧倒的火力をもって行使され、

11月13日にはパリ市内で同時多発テロ

オーランドはベルサイユ宮殿に全国会議員を集めて、

「フランスは戦争状態だ」と宣言、

パリは非常事態宣言を3か月延長、

昨日は大阪維新の会大阪ダブル選挙で勝利し、

個人番号通知カードの不在票がポストに入っていた。

 

ひとつひとつは脈絡がない。

ないが、どこかでつながっているような、

世界は大きく戦争へ、自由の制限へと舵を切っている感覚がある。

 

心がざわざわする。

 

世界も

日本も

職場も

家も

大きな外部からの圧力で

自由への制限が加えらようとしている。

 

すでに

踏みとどまって「自由が必要だ」と言葉にすることは

「権利」ではなく

「抵抗」になってしまった気がする。

だとしたら、

言葉にしなければならないと思う。

言葉が殺されたら、人は個人ではなく、ただのヒトにされてしまうからだ。

いま、言葉にできることを

やらなくてはならないと思う。

このざわざわと、たたかわなくてはならないと思う。

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