いま言葉にできること

Miumiブログ。世界を、時代を、現代を見つめて、言葉は真実をあきらめてならない。

3歳の女児の孤独と地獄。

なんか臭いものっておいしいなぁ。つまりお餅に納豆とネギ。苦くって生臭くっておいしい。

子供は泣いただろう、熱湯を顔にかけられたとき。火がついたような声で叫び泣いただろう。それとも3歳にして熱湯をかけられる死の痛みにすら忍耐できるほどの恐怖を植え付けられていただろうか、3歳で。

正座させられて、顔に痣を作られて、火傷をして殺された子供は、子供の大好きな納豆がおいしいって知ってだろうか。子供は納豆でうがいするって、知ってたかな。知るわけないよな。鬼と住んでたんだ。
3歳の子供の顔に熱湯かけて殺した親は、子供が納豆大好きだって、うがいしながら食べるって、知ってただろうか、きっと知らねえよなぁ。
だって鬼だからよ。
いや鬼じゃなくて、腐れ桃太郎だったのかもね。
くたばれ、子供殺しの桃太郎。
くたばれ、3歳の子供に熱湯をかけて殺す親。
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人は昔、もっと冷たくてもっと強かった

福岡高裁宮崎支部、強姦事件控訴審の逆転無罪判決。
警察のDNA鑑定について「捜査官の意向を受けて鑑定不能とした可能性を否定できない」と、捜査当局による証拠隠しの可能性に言及。

新聞を斜め読みしながら思った。
人は昔、もっと冷たくてもっと強かった。今ほど優しくなかった。昔、人は金がなくても貧乏でも、貧困ではなく、ものがなくても苦しむ事はなかった。

かつて人は「お上に逆らえない」と言いながら、権力を批判的に考えるのが常だったし、「警察に悪意があったら、何だってできるんだ」なんて言う当たり前のことを、今更ながらに驚く現代人とは違って、警察のことを頭から信じていたりはしなかったのだ。

かつて人は、何も信じていなかったし、人間を信じていた。
現在、われわれは全てを信じ込んでいて、何も疑わず、そして人間を信じてはいない。

かつて私たちは、他人が知っている事を知らなくても平気だった。自分だけが知っている事を持つことが、大事だった。
今私たちは、人が知っている事を知らなかったら不安に駆られ、メディアの前から逃れられなくなっている。

テレビの冤罪報道に対して女弁護士が言う。
「いまだにこんなDNA鑑定が行われているのか」
「いまだに」ーそれは、過去を高い目線から見ている言葉だ。
でもそうだろうか?
私たちは、過去に高い目線から見下ろされているのではないだろうか?

かつては、警察のDNA鑑定を当たり前に疑ってかかる、普通の人々がいた。
今は、警察のDNA鑑定が間違っていると、頭から疑う人はいない。
私たちはとらわれているーきっと現代に。
昔、人は馬鹿で当たり前だったのに、今は賢くなければいけない。優しくなければいけない。正しくなければいけない。誰にとって正しいんだろう?
国にとって?
メディアにとって?
お上にとって?

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言葉、言葉、言葉!

と、ハムレットは言ったが、

時おり私も「言葉、言葉、言葉!」とつぶやいている。

 

その理由は、言葉が消えていくからだ。

もちろん頭から。

脳に明らかにトラブルがある。わかってる。そんなこと、もう10年ほど前から。

失語症状である。

はじめは末尾からひとつ前の言葉が消えた。

次第に、単語の想起困難が現れ、換語困難が現れ

最近は、名前が入れ替わる。

困ったものです。

間違ったわけではないんですが、一瞬油断するとよその子の名前呼んじゃうんだ。

ごめんなさい。

 

私個人の脳の中の失言語もやっかいだが、

世界も言語を失っている。

世界は言葉を失い、歴史をも故意に失うことを奨励している。

加虐の歴史を故意に消し去って、被害者になりすまし、

テロや攻撃に対して、自衛が必要だと戦争への道を作り上げる。

戦争への道も嫌だが、特定の言葉や歴史を故意に奪う統制、

国民から思考したり、記憶したり、記録したり、伝達したりすることを奪う統制

そちらは、虫唾が走るほど嫌だ。

漫画『はだしのゲン』でも、

原爆が落とされる描写や原爆投下後のヒロシマの描写も悲惨で目を覆うが、

子供心に恐怖に戦慄したのは、第一巻で描かれる原爆投下前の広島の、

戦時下の日常だった。

そこでは、大日本帝国の戦争に疑問をもつことは禁じられ、

隣近所と戦争を戦うための助け合いを強要され、

反戦思想をもつことは共同体から厳しく見張られ、

竹やりをもって近代戦に対処するという禍々しいフィクションを日夜修練させられる。

特高警察は、少しでもこうした統制に反する国民がいれば

令状なしで逮捕拘留し、暴力と拷問で思想の変更を強制できるのであった。

 

心のありようの自由、それはこれからどうなってしまうのだろう。

個人番号が心を自由を統制するため、国益に反する個人を検索し、公共安全のために半所する時代にならないだろうか?

そのことに、肌身で不安と不信を禁じ得ない。

 

ともかく、言葉、言葉、言葉!なのだ。

自分で感じ取り、知り、考え、記録し、記憶し、伝達する。

言葉を残し、言葉で残されたものをどこまでも隠し持つのだ。

人類の知性に反する時代の行きように、

心のありようの自由を対峙しなければならない。

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毎日心がざわざわする

毎日ざわざわする。

からだの悪寒ではなく、心がだ。

少し前まで、こんな窮屈感はなかった。鈍かっただけなのかもしれないが。

 

多くの国民の反対を無視して

9月安保法制が、国会で強行採決され

連合政権構想や来年参院選への希望もみえないまま、

安倍政権は、立憲主義どころか

アベノミクス新三本目の矢は、介護離職ゼロ」などと

理屈も根拠もない政治を 臆面なく繰り広げている。

原発は、避難の方法もないまま次々と再稼働を始め、

辺野古では、反対する市民への海保と機動隊の暴力が繰り返され、

知事の権限を国が代執行するという暴挙が、

裁判所人事をあらかじめ変更したうえで

準備されようとしている。

欧州への大量のシリア難民の流入は、行く先々の国で困難を極め、

10月にはアンカラデモ行進への爆弾テロ、

ロシアのシリアへの空爆が圧倒的火力をもって行使され、

11月13日にはパリ市内で同時多発テロ

オーランドはベルサイユ宮殿に全国会議員を集めて、

「フランスは戦争状態だ」と宣言、

パリは非常事態宣言を3か月延長、

昨日は大阪維新の会大阪ダブル選挙で勝利し、

個人番号通知カードの不在票がポストに入っていた。

 

ひとつひとつは脈絡がない。

ないが、どこかでつながっているような、

世界は大きく戦争へ、自由の制限へと舵を切っている感覚がある。

 

心がざわざわする。

 

世界も

日本も

職場も

家も

大きな外部からの圧力で

自由への制限が加えらようとしている。

 

すでに

踏みとどまって「自由が必要だ」と言葉にすることは

「権利」ではなく

「抵抗」になってしまった気がする。

だとしたら、

言葉にしなければならないと思う。

言葉が殺されたら、人は個人ではなく、ただのヒトにされてしまうからだ。

いま、言葉にできることを

やらなくてはならないと思う。

このざわざわと、たたかわなくてはならないと思う。

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