『弾劾可決』に思う
『「新興宗教で近づいた人物に国政を牛耳られていた」との構図が明らかになり、朴氏の友人、チェ順実被告による財閥資金の流用や、その娘の大学不正入学などが発覚するにつれ、国民の怒りは増幅。当初2万人だった退陣を求めるデモ参加者は、6週間で220万人に膨れ上がった。』(2016年12月10日東京新聞)
結果、10月下旬疑惑発覚直後、ハードルが高いとみられていた弾劾は、与党現有議席128のほぼ半数となる少なくとも62人が賛成し、圧倒的多数で可決された。
言わずと知れた韓国朴大統領弾劾のことである。
時系列で見ればこうなる。
因果関係で見てもこうなる。
嘆息する。
韓国では、人は当たり前に不正に怒り、人々の不正への怒りに、政治家は震撼する。反応せざるをえない。
日本では、事象はこの順序で因果関係を結ばない。
因果関係が成立する以前には、あまりにたくさんの、あまりにたくさんのハードルが存在するからだ。
まずこの国では、めったなことで政権与党周辺のあるいは権力の中枢にある国会・地方議員周辺の権力とカネにまつわる疑惑は発覚しない。
メディアはそれに関心を持たない。あるいは関心を持っているふりはしたところで、核心にまつわる関係性や確証は国民の眼前に暴きたてられることはない。これまでにも暴きたてられる寸前はあった。しかし話は可能性の段階で止まる。止まるのか止められたのかはわからない。
国民は何も知らないままである。
友人と食事の場であれこれ話す。
友人たちは皆疑っている。
「なぜ国民や都民に利益のないところで多額の税金が使われるのか」
「あのMとかいう政治家は一体どこからいくら金を受け取っているのかね?おかしくない?都税を使って建物を建てろ建てろって」
あるいは、
「Bボール協会長は、Aアリーナを都税で建てさせて、音楽協会からどれだけの金を受け取るんだろう…」
証拠はないから、ただ憶測で喋るしかないのである。知る権利とは名ばかりで、市民には政治家の利権や汚職について知る自由はない。
でもたとえ、政治家の汚職や利権、あるいはカネと政治の結びつき、あるいは政界と財界そして官と政財の癒着とも言える結びつきについて、何かが発覚したとして、人々は怒るだろうか?
いや怒ったとして、人々は行動するだろうか?
行動すると思う。たくさんの人が怒って、行動したいと思うと思う。
でもこの国では、たくさんの怒れる人々は、行動したいと思いながら、何をしていいかわからないまま、いつしか不正と不正への怒りに慣れてしまう。
どんな苦痛も、苦痛を感じ続けるより苦痛を感じないように、それが「苦痛でない」と、あるいは「思ったより大した苦痛ではない」と自分をだますことの方が、今日を生きることが楽であることを日本人は知っている。
そして本当に実際のところ、日本人は何をしていいか、何をしたら、怪しく汚い政治とカネの世界が変えられるのか、皆目わからないのだ。
日本人は自分の考えで社会を変えたことなどないのだから。
こうした手の内のなさは、厚顔無恥な面の皮の厚い政治家たちには、完全に読まれきっている。選挙で負ける以外には、市民からの不正への応報などありえないことを知っているのだ。
韓国の弾劾に、思う。
こんなに近くの国なのに、韓国の人たちと日本人はあまりに違う。
韓国民が6週間で手にした大統領の弾劾という成果は、日本人にとってはあまりにたくさんの高いハードルの、はるかに彼方先である。
南スーダンが「比較的落ち着いている」なんて信じているのは日本人だけだろう
19日付けの東京新聞によると、11月17日アメリカパワー国連大使は安保理事会で「南スーダンに対する武器禁輸等を求める制裁決議案」を提出する考えを示した。
「政府と反体制派の戦闘による一般市民の犠牲をなくす第一歩になる」と説明する。
今月上旬に現地を訪れたディエン事務総長特別顧問も「7月の大規模な戦闘で政治対立が民族紛争になり、憎悪が広がっている」武器禁輸などの国際社会の行動が「民族大虐殺を防ぐ助けになる」と強調している。
日本政府は、自衛隊のPKO活動に「駆けつけ警護」や「宿営地の共同防護」などの拡大任務が付与されることについて、「PKO5原則を満たした上だ」と繰り返し発言してきた。すなわち「①紛争当事者間の停戦合意が成立していること…」等の条件を、現在南スーダンが満たしていると強調する。
しかし世界は、南スーダンで停戦合意が成立しているとはみなしていない。
南スーダンは、今年7月の戦闘で停戦合意が崩壊し、再び内戦状態にある。
さらに、今や国連においてPKOの任務は、停戦合意が破られようと、撤退せず中立的立場を捨てて住民を保護することを優先する。住民保護のためなら、たとえ相手が政府軍であっても交戦主体となって戦うことを求められている。
日本人の頭の中では、まだお花畑が繰り広げられているようだ。
自衛隊は、中立的な立場を守る
停戦合意が守られている地帯のみで活動する
停戦合意が破られば撤退する
と。
世界のスタンダードにおいては、住民を保護もせずに撤退する中途半端な部隊は、おそらく非難をまねくだけだろう。
日本政府の意図はどこにあるのか?
日本政府は国連PKO活動のためではなく、日本政府のために自衛隊を派兵しようとしているというのが、およその見方である。
中途半端な派兵が招く犠牲に対処するには、自衛隊の軍隊化、そして十分な軍備が必要、そしてなによりも十分な法整備が必要、というわけだ。
その延長線上に、「時代のニーズに合わなくなった」憲法第9条の改正があることは言うまでもない。
それにしても、だ。
「自衛隊には何事もなく帰ってきて欲しい」「南スーダンは比較的落ち着いているらしい」「戦闘が起これば勇気を持って撤退するのだ」という希望的観測を信じ自衛隊員の無事を祈る日本人と、
その正しさを声高だかに強調しながら、実は虎視眈々と派兵の実績を作り、既成事実化を進め、既成事実に基づく軍備と法の整備を狙う安倍政権の狡猾さとの対照はどうだろう。
この大きな落差に、戸惑いとショックを感じるのは、自分だけだろうか。
世界地図を見ながら嘆息する。
日本はまだ一応「平和」なのだと。
そして日本人は、間違いなく平和ボケしているのだと。
日本人は何も知らない。遠い南スーダンで何が起こっているのかも。もしかしたら南スーダンがどこにあるのかさえも。
ボケてて許される間は、日本人はお花畑を信じているふりをするのだろう。
そしてある日、自主的に協調的に言うのだろう。
「仕方ない。時代が変わったのだから」
その日、日本に憲法第9条がないことは言うまでもない。